それは、ある昼下がりのことだった。 その日、久しぶりに政務から解放されたロアーヌ侯ミカエルは、休養も兼ねてまたしばらく城を空けようと思い立った。 「思い立ったら即行動」が信条である彼だが、妹に会わぬまま出て行くのもなんだと思い、まだ高い日差しが差し込む廊下をただ1人モニカ姫の部屋まで歩いていた。
季節の移り変わりは早い。ついこの間春が終わったと思ったら、今度はさらに夏が過ぎ去ろうとしている。 暦は秋。しかし、まだ秋と呼ぶには程遠い。ミカエルは前髪を掻き揚げると少しだけ歩調を速めた。肩が揺れるたびに、美しい金の髪がサラサラと音をたてる。 その髪はまさに日差しに溶け込んでいきそうなほどに光り輝いていた。モニカ姫の部屋の前に辿り着くと、彼はその凛々しい顔に縦皺を作った。モニカ姫の部屋から騒がしい笑い声が聞こえてきたからだ。聞き耳を立てるまでもなく、その笑い声はしんと静まり返った廊下に響き渡る。 ミカエルは鬱陶しそうに前髪を掻き揚げ、一応は扉をノックした。無論、問答無用で扉を開けても構わなかったのだが、さすがに妹とはいえ女性の前である。侯爵である自分が、そんな無礼なマネをするわけにはいかなかった。 「私だ。 入るぞ」扉を叩いて短くそう言うと、途端に辺りは静寂に包まれた。 ふぅ……と短い溜息をつくと、ミカエルは扉を開いた。ミカエルの目に飛び込んできたのは2人の女性。1人は自分自身の妹でもある、モニカ=アウスバッハ。そしてもう1人は…… 「お前がいてどういうことだ? カタリナ」 ミカエルは静かに目の前でうつむいている女性を咎めた。もう1人の女性は、カタリナ=ラウラン。モニカ姫の侍女兼ボディーガードであり、また、聖剣マスカレイドを守護する女性である。 「どういうことだと聞いている」 何の感情も込めず、彼は冷徹なまでに質問を続けた。カタリナはうつむいたまま唇を噛み締めていた。 「お兄様! カタリナは悪くありません! 私が――」 「お前には聞いていない」 モニカの反論をミカエルは一蹴した。無論、瞳はじっとカタリナを捉えている。しばしの沈黙が続いた。だがしかし、その重苦しい空気を破ったのはミカエル自身であった。 「……カタリナ、お前にはモニカの行儀しつけも命じているはずだ」
ミカエルは髪を掻き揚げながら続けた。 「しゃべるなとは言わん。 だが、もう少し自重しろ。侯爵の妹が高笑いを上げるなど、外聞悪いことこの上ない」 淡々と続けるミカエルの言葉を、カタリナは黙って聞いていた。ドレスを握り締めた両手が小刻みに震えていた。 「……こんなことを言わずとも、お前にはわかっていることだったな」 ミカエルはもう一度髪を掻き揚げると、くるりと向きを変え、部屋の扉から出て行った。後ろ手で扉を閉めたあと、ミカエルは無言で自分の部屋に向かって歩き出した。廊下に甲高い靴音が響き渡る。と、その途端、ミカエルは突然声を掛けられた。 「あ、ミカエル様!」 声のしたほうを向くと、そこには両手いっぱいに花を抱きかかえた、モニカ護衛隊『プリンセスガード』の1人である、ユリアン=ノールの姿があった。声を掛けたあとで、ユリアンはしまったという顔をしている。 「その花はなんだ」 ミカエルはユリアンを流し見ると、興味のなさそうな口調で、若い騎士に不釣合いなものの質問をした。 「あ、いや、これは、その……!?」 ユリアンはしどろもどろに説明しようとする。ミカエルは髪を掻き揚げながらフンと短く鼻で笑った。 「モニカに頼まれたのだろう? お前も、ずいぶんと仕事ができるようになったのだな」 ミカエルにしてはめずらしく冗談を言ったつもりだったのだが、どうもユリアンには通じなかったようだ。 「え!? あ、はい! そうです!! モニカ様に自分の好きな花を当ててみせてって言われて……」 そういうことか……と、ミカエルは1人納得していた。最近、宮廷で『花占い』と言うものが流行っていると彼は耳にしていた。花を相手の男に持ってこさせて、その花によって相手との相性を量ろうというものらしい。モニカはそれをユリアンに試そうとしていたのだ。 しかし恋愛ごとにはどこまでも鈍感なユリアンは、そんなこととは露知らず、本当にモニカ姫が好きそうな花をすべて見繕ってきてしまったのだろう。 (少し大目に見てやればよかったか……) これまためずらしく、ミカエルは自分の大人気なさを反省した。さっき2人が騒ぎあっていたのは、ユリアンがどんな花を持ってくるかを言い合っていたからなのだろう。言い分も聞かずに、見たことだけを真実としてしまったことに、ミカエルは為政者としての立場から自らを反省した。 「そうか、まぁいい、それなら早くモニカのところに持って行ってやれ」 髪を掻き揚げながら、ミカエルは投げやりにそう言った。少しばかり外にでも行って頭を冷やしたかった。 「………………………」しかしユリアンは、そんなミカエルの様子をじっと見つめている。 「どうした?」 「あ、いや――!」不思議そうに聞くミカエルに、ユリアンはこう答えた。 「ミカエル様、随分髪が伸びたな……って思って」 ミカエルは髪を掻き揚げる手をピタリと止めた。言われてみればその通りであった。ここ数ヶ月、髪はおろか、自分のことさえも顧みず、彼は政務に追われていたといまさらながら気づかされた。 ミカエル自身まったく気づかなかったことを、この若い騎士はこともなげに指摘してきたのだ。 「髪、切らないんですか?」 遠慮という言葉を知らないのか、ユリアンは自分の君主に対し率直にものを言った。いや、それ自体は、彼にとって普通のことなのだろう。ミカエルはそのことについて何も触れずに答えた。 「……そうだな。 いい加減、鬱陶しかったところだ」止めていた手を最後まで通し、彼は手を下ろす。 「それなら、カタリナさんに頼むといいですよ」ユリアンが純朴そのものな笑顔でそう言ったのは、それとほぼ同時のことだった。 「カタリナに?」怪訝そうなミカエルに対し、「はい、カタリナさんです」ユリアンはまったくの笑顔だった。 「オレ、前にカタリナさんに髪を切ってもらったことがあるんですよ。 いや、別にオレが頼んだわけじゃないですよ。 髪がだいぶ伸びてたとき、寝癖をつけたまま歩いてたらカタリナさんに会って、『身だしなみには気をつけなさい』って言われて……でもオレは別に気にしてないって言ったら『仕方がないから、私が切ってあげます』……って。あ、その目、信じてませんね! 本当ですよ! それで、オレ、すごいイイ感じにカットしてもらったんですから!!」 早口でまくし立てるユリアンの瞳は真剣そのものであった。なるほど、ユリアンの言っていることはどうも本当のことらしい。しかし、カタリナにそんな特技があったなど、ミカエルにとって初耳なことであった。 「だから、ミカエル様もカタリナさんに髪を切ってもらうといいですよ」 ユリアンの言葉は何の打算もない素直な言葉であった。どうもこの若者には、アウスバッハの威厳は通用しないらしい。ミカエルは肩で1つ溜息をつくと、目で「行っていい」と促した。 「あ、じゃあ、失礼します」 それだけは感じ取ったのか、ユリアンはミカエルに一礼すると、いそいそとミカエルの横を通り過ぎた。ユリアンが通り過ぎた瞬間、ふわりと甘い花の芳香がミカエルの所に漂ってきた。 「ユリアン」 花の香りに魅せられたのだろうか?言うべきことなど何もないはずなのに、ついミカエルはユリアンを呼び止めていた。 「はい?」 振り向くユリアン。一瞬、ミカエルは何を言うべきか迷った。 「……その花は、どこから摘んできた」 仕方がないので、ミカエルは本来は言わないでおこうと思ったことを口にした。 「え!? あ、これは、その!!」瞳を白黒させながら弁明を試みるユリアン。 聞かなくても、ユリアンの持っている花は中庭の花壇から摘んできたことなどわかっていた。わかっていたから、別段咎めようとも思っていなかったのだ。 「いい、そのことについては、自分で庭師に謝っておけ」ミカエルは表情なくそう言った。 言って、 「そのかわり、カタリナにあとで私の部屋に来るように伝えろ」自分でも驚くようなことをユリアンに頼んでしまっていた。 「え?」 「髪を切る道具を忘れるなと付け加えてな」ミカエルは再び髪を掻き揚げると、そのまま部屋へと歩き出した。 (花……か) ミカエルは部屋に着くまで、鬱陶しげに何度も何度も髪を掻き揚げ続けた。
カタリナは迷っていた。 本当に自分ごときが、敬愛するミカエル様の髪を切ってしまってもいいのかと……ハサミと櫛を手に持ったまま、カタリナは鏡に映る自分と主君の姿を見比べた。髪をまとめ上げ、切った髪がついてもいいように軽装になった自分と、イスに座り肩からすっぽりと布をかぶせられたミカエル。 どちらもどちら……と本来ならばそう言ってしまいそうであるが、相手はロアーヌを治める領主である。ただ座っているだけでも、他のものとは一線を分かつほどの空気をまとっていた。 「何をしている?早くしないか」ミカエルは目を瞑ったまま、カタリナに命じた。 長くなった前髪が目に入ってしまうため、イヤでも目を瞑らなくてはならないのだ。 「は、はい! ミカエル様!」 そう言われてしまえば、カタリナはその言葉に従うしかない。ごくりとつばを飲み込むと、カタリナは櫛を持つ手を動かした。すっ……と、音もたてずに櫛はミカエルの髪に吸い込まれた。 (なんて……きれいな髪) カタリナは、ほぅ……と溜息をついた。女である自分が憧れるほどに、ミカエルの髪はつややかであった。何の抵抗もなく、櫛は髪を梳いていく。櫛が髪を通り抜けていくたびに、髪は光を反射して、様々に表情を変えていく。 カタリナは、ふと自分の髪に触れてみた。多少は手入れをしているつもりだが、それでも、ミカエルには敵いそうもなかった。カタリナは悲しげな溜息をつくと、ハサミを持つ手をミカエルに近づけていった。 (やはり兄妹、よく似ていらっしゃる) カタリナは近づくにつれて震えてくる手を何とかするために、そんなことを考え始めた。 (そうだ、そう、この髪はモニカ様の髪。そう思えばいい。 そうすれば……) クッ……っと、カタリナは歯噛みした。何を考えている、そんなことをしたって、何の解決にもならないではないかと。カタリナは大きく深呼吸すると、キッと目の前の鏡を見据えた。ミカエルが髪を切るためだけにわざわざ持ってこさせた鏡台である。切れ長の瞳で自分の虚像を見据えるカタリナ。 目を閉じて、すべてをカタリナの手にゆだねるミカエル。そして、それを行うための道具の数々。様々な本が立ち並ぶ本棚。 小さな花瓶……鏡はすべてを映し出す。それは目に見えるものならばなんであれ。 (私は、カタリナ=ラウラン。 ミカエル様の命に従うのが私の務めだ!) そう自分に言い聞かせて、カタリナは視線を元に戻した。そして、一瞬息を止めると、カタリナはハサミにわずかな力を入れた。軽やかな音をたてて、ミカエルの髪の一部が宙を舞った。 カタリナは再び大きく息を吸った。もう、ためらいはなかった。カタリナはすぐさまハサミに力を入れて、他の部分を切っていった。時間がゆっくりと流れていく。軽い音が鳴り響くたびに、日の中に溶けていくように金の髪が舞い落ちる。この間、カタリナは何も考えてはいなかった。 無我……というのだろうか? その集中力は驚くべきものであった。後ろ側の髪が終わり、今度は前髪を切るというところで、カタリナは再び鏡を目にした。 (ミカエル様、なんて、凛々しい……) 鏡に映るミカエルは、まるで彫像のようにその表情を変えなかった。どんな芸術家でさえ、その顔には感嘆の声を漏らしたであろう。 それほどに、ミカエルの顔は美しかった。カタリナはハッと、ミカエルの顔に見入っている自分に気づいた。頬が紅く染まっていた。 ぶんぶんと頭を振り、邪念を振り払うと、カタリナはミカエルの前髪に集中した。だが、カタリナは気づくべきだったのかもしれない。なぜ、ミカエルの表情が変わらなかったのかを……カタリナがハサミに力を入れかけたとき、ガクンと、勢いよくミカエルの顔が揺れた。
ジャキン。 鈍い音がした。
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